オリッサ州

インド東部にある州。東部はベンガル湾に面する。海岸線はほぼ直線で良港はない。州都はブバネーシュワル。
住民のほとんどは米作に従事している。その他の農作物は、豆類・綿花・タバコ・サトウキビ・ターメリック。家畜は、水牛・牛・ヤギ・ヒツジ。魚介類は大量に輸出されている。
おもな産業は、鉄鋼の生産、織物・セメント・紙・ガラス・アルミニウム・石鹸の製造、砂糖および石油の加工。また、伝統産業として、手機織り、籠、木工品、帽子・綱・銀線細工の製作などがある。
1803年、イギリスの統治下におかれ、1912年にはビハールとあわせて一つの州とされたが、36年に単独の州となった。現在のオリッサ州は、インド独立後の49年、いくつかの小藩王国を併合するかたちで成立した。



ブバネーシュワル

インド東部オリッサ州の州都で宗教都市。新市街には州議会などがあり、州都としての機能を担っているが、その南方に林立する大小さまざまの数百のヒンドゥ教寺院が有名。
主要なものは8〜13世紀の造営で、カジュラーホーの諸寺とともにインドの北型建築を代表する。
高さ46mのシカラ(高塔)が聳えるリンガラージ寺院は11世紀初めに建立された市内最大のヒンドゥ寺院で、オリッサ建築の最高傑作といわれている。
パラメーシュワラ寺院は、最初期の寺院で、揺籃期のヒンドゥ寺院の姿を示している。
ムクテーシュワラ寺院は、10世紀建造の、“砂岩の夢”と讃えられた美しい寺院で、規模こそ小さいものの、完成度の高い珠玉の寺院である。アーチ型のトラナが特徴。
ラージャラーニ寺院は、12世紀建立の優美で女性的な彫刻で知られている。ブバネーシュワルで最も華々しく開花したシカラを持つ寺院である。
南8kmのダウリは、アショーカ王とカリンガ軍の激戦地で、紀元前260年のアショーカ王の勅命を刻んだ石碑がある。



カンダギリ、ウダヤギリ石窟寺院群

紀元前3世紀この地に栄えたカリンガ王国は、アショカ王に征服されて沈滞したが、紀元前1世紀にはカーラヴェラ王が現れて、ガンジス流域や南インドにまで領土を拡大した。王はとりわけジャイナ教を信仰していた。それゆえに、インドの石窟寺院の歴史の中でも初期の重要な窟院群が、ブバネーシュワルの西5kmの地に開かれ、ジャイナ教に献じられたのである。ここには2つの丘が向かい合い、ウダヤギリには18窟、カンダギリには15窟が残っている。最大のものはウダヤギリのラーニー・グンパ(王妃の窟院)で、前1世紀に開窟された。石窟寺院の原型ともいうべく、2層の柱廊の奥に矩形の僧室が並ぶ。それぞれの入口の上部はアーチ状になっていて、その間の壁には人々の日常生活がアルカイックに彫刻されている。そのスタイルはサーンチーのトラナ彫刻とよく似ている。



プーリー

ベンガル湾に面した海辺のまちでインド4大聖地の一つ。クリッシュナの生まれ変わりのジャガンナートを祭るジャガンナート寺院の門前町。ジャガンナートとその兄バラバードラ、妹のスバードラの3神を祭った16の車輪を持つ巨大な3台の山車が町中を巡る夏のラタ・ヤトラ祭は、最大のイベント。
ジャガンナート寺院は、市中心の高台に建つ高さ65mの渦巻き状尖塔を持つカリンガ様式の寺院。寺に仕えるもの6000人を数えるオリッサでも最大の寺院で、コナーラクのスーリヤ寺院が黒塔と呼ばれるのに対し、“白塔”と呼ばれている。中には入れないので、道の反対側のラグナンダン図書館から眺めると良い。
プーリーの海岸は、日の出、日没の風景が壮大。



コナーラクのスーリヤ寺院(世界遺産)

コナーラクとは“太陽の片隅”の意味。スーリヤ(太陽神)寺院は、13世紀にガンガー朝のナラシマ王がベンガルのイスラム教徒との戦争に勝利したのを記念して太陽神スーリヤに奉納した寺院で、石工と彫刻家1200人が12年の歳月をかけて建立したもの。寺院全体を7頭の馬(プリズマの7色を表す)に引かれた12組24個(太陽の周期を表す)の巨大な車輪に見立てたもので、拝殿周囲を人間の愛の営みを描写したエロチックなミトゥナ像(男女交合像)が埋め尽くしている。このミトゥナ像はカジュラーホーと並んで有名である。



デカン高原

デカンという言葉は、南を意味するサンスクリットの「ダクシナ」を語源とする。広義にはインド半島全体をさすが、狭義にはナルマダー川以南、ニールギリ丘陵とパルニ丘陵まで広がる高原をいう。起伏に富み、大部分は標高600m以下だが、1500mに達する高地もある。
西端に西ガーツ山脈があり、海岸は険しい急斜面となって、アラビア海に面するマラバル海岸へつながる。北西部は約50万km2の溶岩台地を形成し、東端に東ガーツ山脈がある。
海岸線まで比較的緩やかで肥沃な地域が広がる。全体に東に傾斜しており、カーベーリ川、ゴダーバリー川、クリシュナー川、ペナー川など高原を流れる主要河川は東側のベンガル湾にそそぐ。
西ガーツ山脈により、雨季のモンスーンがさえぎられるため、年降水量は少なく、1年の内、6〜9ケ月間は乾季となる。地表の多くはイバラの潅木林に覆われ、一部に落葉広葉樹林も見られる。



ナーガルジュナコンダ

南インド、クリシュナ川流域には数多くの初期仏教文化の遺跡がある。はじめ仏教は北インド・ガンジス中原に興隆するが、前3世紀頃にはこの一帯に伝わり、やがてことに後1〜4世紀頃にかけて、独自の文化様式を確立・展開したことをこれらの遺跡は良く物語っている。中でも河口よりやや内陸に入ったジャガヤペータやアマラーヴァティは比較的初期の様相を示すが、それより上流のナーガルジュナ・コンダは、その後期、すなわち後3〜4世紀の最も爛熟した文化の跡を良く遺した。すなわち、当時ナーガルジュナ・コンダはイクシュヴァーク朝の首都、ヴィジャヤプリーとして知られていたのである。
残念ながらこの地はダムに没することになり、国家的規模で当地の発掘と主要な建築物の移築が行われた。現在、元の遺跡は湖底に沈んでいるが、発掘によって多くの発見があったのはせめてもの救いである。ここからは、古くは旧石器や巨石墓も見つかっているが、
遺跡はより北方のナーガルジュナ丘(城壁と中世の寺院址)と、その南方のイクシュヴァーク朝期の城址が主なものである。ことに後者では、市の北方に旧都市の跡と、さらに北の市外の競技場や川岸に降りる沐浴場をはじめ、大塔をふくむ30あまりの仏教寺院址も発見されている。



アーランプル・ヒンドゥ寺院群

6世紀の半ばに始まったチャルキヤ朝は、中世の初期ヒンドゥ建築の発展に大いに寄与した。その中心はカルナータカ州のバーダミにあったが、東方のアーンドラ地方に進出した勢力は、7世紀に東チャルキヤ朝を興し、アーランプルに重要な寺院群を残すことになった。カルヌールから約45kmのトゥンガバドラ川沿いの小村には、小規模ながら9寺院が残り、すべてシヴァ神に献じられたが、誤っていずれもブラフマー神の名前が付けられている。どの寺院も“聖室+マンダパ”の全体を矩形の壁で囲うことによって、聖室の回りに繞道を回している。聖室の上には北方型のシカラを立て、外周壁にはいくつもの装飾的なニッチを設けて神像を安置した。ニッチの上にはチャイティヤ窓をモチーフとした破風が彫刻され、その脇には天人が舞っている。今も礼拝されているバーラ・ブラフマー寺院のみ、さらに外周に柱廊を巡らせている。



ハンピの都市遺跡(世界遺産)

パンピの都市遺跡は、14世紀前半にヒンドゥ教を奉ずるヴィジャヤナガラ王国の首都として建設が始められた。以来、王宮をはじめとして数々の寺院がここかしこに造営され、16世紀半ばにイスラム勢力に攻略されるまで、「勝利の都」と呼ばれる大都会であった。今日では遺跡の北側を流れる川の古名であるハンピの名前で呼ばれている。
遺跡は広大で、大きく北側の寺院地区と南側の宮廷地区とに分けられる。寺院地区は市街の外側にあり、ヴィルバークシャ寺院の正面からは、ハンピ・バザールと呼ばれる700mの大通りがある。その両側の古い建物には村人が住みついてしまった。ここから北東のビッタラ寺院までは、川沿いに印象的な景観や寺院を眺めながら2.5kmを歩くことになる。1981年以来修復が進められていて、次第にその全貌が明かにされつつあり、多くの人々の努力によって、風化と破壊の危機から救われた貴重な遺跡が訪問者を魅了している。



バーダミ

南インドでも特別に魅力的な所のひとつであり、アイホーレとパッタダカルを訪れる基地でもあるが、交通が不便なことと良い宿泊施設がなかったことが、逆に観光客から守られた静かな史跡にしている。今は人口2万人足らずの小さな町であるが、かつては前期チャルキヤ朝(6〜8世紀)の首都のヴァーターヒーであり、アイホーレと並んで中世のヒンドゥ建築の揺籃の地であった。大きなタンク(人造湖)の3方を岩山に囲まれ、西側の平地に町があり、街道が通っている。岩山の上には城址があり、南山にはヒンドゥの初期の石窟寺院が彫られ、北山にはいくつもの小寺院が岩山に溶け込むように建っている。タンクのガートでは日がな洗濯婦たちが洗濯物を岩に打ちつける音が周囲の岩山にこだましている。まるで、中世のインドを絵に描いたような印象深い所である。



アイホーレ

バーダーミの北東約45kmにある前期(西)チャルキヤ朝の遺跡。小規模のものや半壊したものも含めると100以上の石積寺院があり、石窟も2窟ある。一部のジャイナ教寺院の他はすべてヒンドゥ教に属し、主要なものは6世紀後期から8世紀までの造営である。最も古いラド・ハーン寺は、正方形の本殿に玄関を付け、ゆるい傾斜の屋根をのせた素朴な形態を取る。7世紀後期のドゥルガー寺は、仏教のチャイティヤ堂(塔を安置する堂)を忍ばせる後円の長い堂に玄関を付けた珍しい形で、回廊に優れた彫刻がある。建築は全般に背が低く、本殿の上にインド北型の高塔(シカラ)をのせるものもある。
本殿外壁にはほとんど外壁を彫刻を付けず、玄関その他の柱に守門神やミトゥナを彫り、天井に神像を浮彫することが多い。彫像は手足が細く、肉付けが滑らかで柔らかく、しかも内面に力を秘めている。しかし作風にはかなりの差異があり、7世紀中期位後のものにはパッラヴァ彫刻の影響が顕著である。



パッタダカルの寺院群(世界遺産)

チャルキア朝の首都はバーダーミにあったが、王族はパッタダカルの地を好み、ここを「戴冠の都」としていた。この都市に建立された多くの寺院のうち最も雄大なヴィルーパークシャ寺院は8世紀にパッラバ朝との戦いに勝利して凱旋した王の名誉を記念すべく造営された。この地に遺跡として残る寺院群には、南インドの王領各地から集められた石工や彫刻家たちの携えてきた経験と技術が集積している。奇跡的に破壊を免れたパッタダカルの遺跡はまさに「寺院都市」の一例であり、南方型と北方型の両様式の寺院が、混在することでも知られている。



ゴア

ムンバイの南300kmのアラビア海に面した小さな州。1510年から1961年までポルトガル領だったため、今でも植民地時代の面影が色濃く残る。南欧情緒が漂うインドでも異色の町としても知られる。100kmも続くビーチリゾートとしても有名で、シーフードのメッカでもある。アラビア海に沈む雄大な落日風景も素晴らしい。